fortyck Opublikowano 18 Czerwca 2013 Autor Zgłoś Opublikowano 18 Czerwca 2013 Wywiad z Kitaro dla TV (2011 r.)
fortyck Opublikowano 14 Lipca Autor Zgłoś Opublikowano 14 Lipca 2026/01/17 <インタビュー>喜多郎 世界中で音楽を奏で続ける理由「音楽は国境も宗教も超えて、人と人をつなげてくれる」 喜多郎 Interview & Text:黒田隆憲 Photo:森好弘 喜多郎が歩んできた「音の旅」が、再び現在形で響きわたる。 昨年6月には福井・越前大仏での奉納演奏を収めた『Zen : Live in Katsuyama』、7月には空海生誕1250年を記念した香川・善通寺での奉納公演『Kukai 1250 Live in Zentsuji』を発表。そして2025年9月、NHKドキュメンタリー『シルクロード』放送から45周年を記念したリマスター盤『Best of Silkroad』をリリースした。 3作はいずれも、シンセサイザーと和の音楽、そして「祈り」を軸に据え、半世紀にわたり世界を舞台に活動してきた喜多郎の集大成であり、次章への序章でもある。宗教建築と音を融合させた立体的なライブ・アートから、映像と音が呼応する新たなステージ演出まで、彼の音楽は時代とともに形を変えながら深化を続けている。 パンデミック以降、人々が再び心の拠りどころを求めるようになった今、喜多郎の音楽は新たな世代にも届き始めている。その現在地と、これから見据える「音のシルクロード」の行方を聞いた。 宗教や言葉が違っても、 人々が音楽に抱く感情は共通している ――NHKドキュメンタリー『シルクロード』放送から45周年を記念したリマスター盤『Best of Silkroad』がリリースされました。喜多郎さんにとってこのプロジェクトは、どのようなものだったのでしょうか。 喜多郎:当時の僕は、すでに『天界』『大地』『オアシス』と3枚のソロアルバムを出していました。それらは“ニューエイジ” “マインドミュージック”といった言葉で紹介されることも増えていて、少しずつ注目され始めていた時期だったんです。そんななか、NHKによるドキュメンタリー番組『シルクロード』が放送されたことで、音楽と映像が融合する力の大きさを改めて感じましたね。とりわけ映像が持つ影響力というのは、本当にすごいものだと思います。 ――ちょうど長野に拠点を移された頃でもありますね。 喜多郎:それまで僕は鎌倉に住んでいたのですが、春から夏になると海水浴シーズンでうるさく、作曲に集中できなくなってしまって……(笑)。そんな頃、たまたま友人が長野に住んでいたので訪ねたことがあったんです。帰る道すがら、山の中にポツンと一軒家が建っているのを見かけて。気になったので近寄って見てみたところ、どうやら誰も住んでいない。隣の方に聞くと「大家さんは近くにいるよ」と教えてくれたので、酒屋で一升瓶を2本買って手土産にして、「あの家を貸してください」と直談判したんですよ、その足で。その場で「いいよ」とおっしゃっていただき、鎌倉に戻ってすぐ荷造りを始め、1週間後にはもう引っ越していました。 ――「シルクロード」は、その長野の家で制作されたんですね。 喜多郎:テーマ曲だけは鎌倉で作りましたが、それ以降のほとんどの曲は長野で作りました。映像と結びついた音楽づくりは初めての経験で、それまでの3作とは作り方も大きく変わりましたね。NHKから映像素材をビデオで受け取り、それを観ながら音をつけていく。当時は映像と音楽を同時に制作すること自体が珍しく、とても勉強になりました。石坂浩二さんのナレーションが入る構成だったので、彼の声に合わせて音をどう配置するか、タイミングを考えるのが重要でした。特別な打ち合わせはほとんどせず、僕は自分の感覚で音を作っていったのですが、石坂さんが僕の音楽に合わせてナレーションのテンポを考えてくださって。結果的に、完璧にシンクロした。あれは本当に貴重な体験でしたね。 ――テーマ曲「シルクロード」は日本だけでなく、アジア全体にも広がりました。 喜多郎:NHKが世界各国に番組を配信していて、たしか関連作品を含めると100か国以上で放送されたのだと思います。国によってはナレーションを英語や現地の言語に差し替えていましたが、音楽はすべてそのまま。今回のアジアツアーでも実感しましたが、いまも「シルクロード」を聴き続けてくれている人が各地にいることを強く感じます。 ――「シルクロード」にまつわる海外公演で、何か印象に残っているエピソードはありますか? 喜多郎:音楽には、政治の枠を越えて人と人をつなぐ力があるということ。例えばイランで、『シルクロード』が放送された直後に政府から正式な招聘の話がありました。ご存知のように国際情勢の関係でなかなか実現できず、実際に行けたのは十数年後でしたが。ただ、僕自身、『シルクロード』の制作後に作品の舞台となった地域を自分の目で確かめたくて、イランの国境近くまで旅をしたことがあって。その過程で旧ソ連圏、ウズベキスタンやカザフスタンなどを巡り、イスラム文化の息づく土地を実際に歩くことができました。 その旅で強く感じたのは、宗教や言葉が違っても、人々が音楽に抱く感情は共通しているということ。コンサートでも、最初の一音で会場全体の空気が変わる瞬間があるんです。政治の境界線ではなく、心の共鳴でつながっていく。音楽家としては、それがいちばん嬉しい瞬間ですね。 ――なぜ「シルクロード」は、国や文化を越えて多くの人の心に響いたのだと思いますか。 喜多郎:当時は、シンセサイザーを使った音楽自体がまだ珍しかったんですよ。一般的な作曲手法とは違い、シーケンスを取り入れた構成も新鮮でしたし。「シルクロードのテーマ」でも、本来ならオーケストラのハープで演奏されるようなフレーズをシーケンサーで作っていた。そうした音の組み合わせが、当時の人々にはとても珍しかったのだと思います。 何より大事なのはメロディーでしたね。ドキュメンタリー音楽というと、背景に流れるBGM的なものとして扱われがちですが、僕はそれぞれの地域にテーマを設け、その土地に合った旋律をしっかり立たせようとしていました。取材が進むごとに「この地域はこのテーマ」「このシーンはこの音色」と、自分でメロディーを決め、そのイメージに合う楽器を選んでいく。さらに、ライブで演奏する際には、メロディーをシンセではなく二胡やバイオリンで奏でることもありました。ほんの小さな音の要素でも、その土地らしい響きが加わるだけで、全体の雰囲気がぐっと変わるんです。 ――音楽を聴く人たちの変化は感じますか? 喜多郎:僕のコンサートに来てくださる方は、昔からずっと聴いてくれている人が多いんです。日本では特に年齢層が高く、長年のファンの方が中心ですね。僕たちが“ニューエイジ”と呼ばれる音楽を作り始めた1980年代には、そうした音楽が一種のムーブメントとしてメインストリームにあった時期もありました。いまの日本では依然としてジャンルの壁が強く、ポップスがメインストリームにあり続けています。 その一方で、東南アジアやヨーロッパでは若い世代が増えており、今はむしろ20〜30代が中心になりつつある印象です。海外ではSpotifyなどのサブスクリプションやYouTubeを通じて音楽を知る人が多く、それが世代を超えて広がっている要因のひとつだと思います。 ――演奏スタイルという点でも、時代とともに変化してきた部分はありますか。 喜多郎:今は、オーケストラで演奏した音源をベーシックトラックとして使い、そこに僕とバンドメンバーが生演奏を重ねていくスタイルが多いですね。それに加えて、最近は『古事記と宇宙』のように、宇宙映像と音楽を組み合わせたステージも増えています。『シルクロード』の公演では、当時の映像を一部取り入れながら演奏することもあります。昔は照明演出が中心でしたが、いまは映像を積極的に取り入れたコンサートが主流になってきました。 どんな時代でも音楽が人の生活の中にあること、 それを大切にしていきたい ――2023年に福井・越前大仏(大師山清大寺)で行われた【Zen : Live in Katsuyama】(2024年6月リリース)も、プロジェクションマッピングを取り入れた公演でしたね。 喜多郎:プロジェクションマッピングの第一人者、長谷川章さんと一緒に制作しました。あの日はあいにくの雨で、観客は回廊の下にしか入れなかったんです。僕たちはオープニングのあとすぐ本堂に入ったので、外の映像がどうなっているのか実は見えなかった(笑)。あとで編集の際に映像を観て、「ああ、こんなふうに映っていたのか」と初めて知りました。大仏殿の外壁全体に投影された映像は圧巻でしたね。 ――まさに“音と祈りの融合”という印象でした。 喜多郎:あの空間には1,200体を超える仏像があり、まるで建物全体が共鳴体のようなんです。長谷川さんのデジタル掛け軸の光と、僕のシンセサイザーや太鼓、笛の音が交わることで、音楽そのものが祈りになっていくような時間になりました。演奏したのは「祈りの大地」「Mercury」「Silk Road」「Aqua」「Requiem」など全13曲。電子音と生楽器を融合させ、「仏教的瞑想空間」を音で描こうとした公演でした。 ――生楽器の使い方がとても印象的でした。 喜多郎:シンセだけでなく、エレクトリックシタールや和太鼓、笛を組み合わせるのは昔から好きなんです。最近は会場ごとの響きに合わせて、その場に最も合う音を選ぶようになりました。「どの楽器がその空間で一番響くか?」「どうすれば聴き手にインパクトを与えられるか?」を常に意識しています。 ――その前には、空海生誕1250年を記念した【Kukai 1250 Live in Zentsuji】(2024年7月リリース)が行われています。 喜多郎:僕にとって空海は特別な存在です。四国八十八ヶ所の巡礼を始めたのは2001年、アメリカで同時多発テロが起きた直後でした。そこから少しずつ歩き始めましたが、まだ全ては回りきれていません。今は49番目までで、残り39か所。「死ぬまでには必ず全部まわりたい」と思っているんです。 ――善通寺の公演は、音楽だけでなく映像や書が融合した総合芸術のようでもありました。 喜多郎:音楽家の岡野弘幹さん、書画家の小林芙蓉先生、四国八十八か所 善通寺の僧侶の皆様と共演しました。金堂の外壁にプロジェクションマッピングを投影し、法要と音楽、書のパフォーマンスが一体になるよう構成したんです。演奏したのは「慈悲」「The Wind From Heaven」「Silk Road」「Caravansary」「Matsuri」「Reimei」など。岡野さんの「Mother Song」「Starry Night」も加わり、「祈りと調和の宇宙観」を音で表現する試みになりました。 ――喜多郎さんにとって、空海とはどんな人ですか? 喜多郎:思想家としても宗教家としても、空海はやはり「スーパーマン」です。唐の長安まで渡り、未知の世界に飛び込んで教えを学び、それを日本に持ち帰った。その行動力と精神力は本当にすごい。僕自身も八十八ヶ所の“鐘の音”をすべて録音したことがあるのですが、それだけでも10年かかりました。あのスケールを思うと、空海の生き方は今も僕の目標であり続けています。 ――世界を旅しながら文化を吸収して音楽を作り続けている喜多郎さんは、まさに「現代の空海」ともいうべきパワーの持ち主ではないかと… 喜多郎:ははは、そうですかね(笑)。確かに昔の空海も、あらゆる知識や文化を吸収しようとした人でした。僕にとっても、世界を旅しながら音楽を通して人の心をつなぐことは、それと同じように「新しい世界への探求」なんです。空海が宗教という形で人の心を導いたように、僕は音楽という形で平和や調和を伝えたい。どんな時代でも音楽が人の生活の中にあること、それを大切にしていきたいと思っています。 ――ご自身と空海の間に共通点を感じることはありますか。 喜多郎:ありますね。作品づくりは、まるで修験道のようです。精神的にも肉体的にも自分を追い込み、極限の先でしか見えない感覚といいますか……「もう一つの世界」がある。その瞬間に出会えたとき、「ああ、自分はまだこの道を歩いているんだ」と実感します。 ――ヨーロッパでも、さまざまな出来事に遭遇されたそうですね。 喜多郎:ロシアがクリミアに侵攻した2015年ごろ、ちょうどモスクワで公演していました。その翌日はウクライナ・キエフでのコンサートが予定されていたんです。モスクワの公演を終えてホテルに戻った瞬間、「キエフが攻撃された」とニュースで知りました。僕たちのコンサート会場の近くまで爆撃があり、結局公演は中止。楽器だけをトラックに積み、ポーランド経由でドイツまで運ぶことになりました。 ギリシャでも似た経験があります。13〜14年前、アテネで学生が警察に射殺されて暴動が起きた時期に、ちょうど僕たちのコンサートが重なってしまって。ホテルへ向かう途中でデモ隊の群衆を横目に見ながら、「この状況で本当に演奏できるのか」と思いました。それでも最終的には無事にステージをやり遂げることができた。世界を旅していると、こうした “非日常”に何度も出会いますが、そのたびに音楽の意味を深く考えさせられます。 ――今も世界中を飛び回りながらエネルギッシュに活動されている喜多郎さんは、12年前にお会いしたときと全く変わらない若々しさを保ち続けていらっしゃいます。日々心がけていることはありますか? 喜多郎:いやあ、特別なことは何もしてないんですよ(笑)。ただ、「自分のために生きる」というよりは「作品のために生きている」という意識が常にありますね。自分の時間やエネルギーを作品づくりに注ぎ、その音楽を通して少しでも平和や癒しを伝えられたら。それが自分の使命、ミッションのように感じているんです。 ――音楽を広げていくための「媒介」として、ご自身が存在していると。 喜多郎:まさにその感覚です。「シルクロード」を作っていた頃とは時代が大きく変わり、世界では戦争や対立が続いています。第三次世界大戦になりかねない緊張もある。だからこそ、音楽や芸術に携わる人間が、別のかたちで「世界を落ち着かせる力」になれたらと思っています。 アメリカには長く拠点を置いてきましたが、最近は「本当にここでいいのか?」と考えるようになりました。むしろアジアの方が、音楽に込めたメッセージを深く受け取ってくれる人が多い。アメリカではニューエイジも一時ブームになり、ビルボードチャートにエンヤのようなアーティストが並びましたが、流行の移り変わりが早い国です。その点、東南アジアやヨーロッパではいまも精神性の高い音楽が息づいていて、演奏していても手応えがあります。 ――危険な場所でも演奏を続けてこられた。その原動力はやはり「音楽を通して世界にメッセージを届けたい」という思いなのでしょうか。 喜多郎:それがすべての出発点です。音楽は国境も宗教も超えて、人と人をつなげてくれる。だから、どんな状況でもステージに立つ意味があるんです。アテネに初めて行ったとき、ちょうどヴァンゲリス(2022年5月17日に死去)も滞在していて、一緒に食事をしながら「今度こういう作品をやろう」と語り合いました。その後も何度か会って交流を重ねましたが、そうしたレジェンドたちもみんな先に旅立ってしまった。だから今は、自分がその“灯”を受け継がなければという気持ちが強いです。 ――先ほどお話ししてくださった空海プロジェクト以外で、これから挑戦してみたいことはありますか。 喜多郎:まず、プライベートでは旅がしたいです。コンサートでいろんな国に行きますが、純粋に「旅人」として世界を歩くことはほとんどありません。最近もマレーシアやシンガポール、タイを訪れましたが、タイに初めて行ったのは50年前。その頃のバンコクはまだ舗装もされておらず、道は土のままでした。それが今では高速道路が張り巡らされ、東京とほとんど変わらない街並みになっている。でも、街角に積まれたゴミを見て「これだけは昔と変わらないな」と思ったりして(笑)。 そんななかで、つい昔の「匂い」や「名残り」を探してしまうんです。失われつつある風景のなかに、何か大切なものが隠れているような気がして。中国でも同じです。初めて行ったのは44年前。当時はみんな人民服を着ていて、街じゅうが緑一色。北京の繁華街では壁新聞を人々が囲んで読んでいて、それが情報の中心でした。それが今ではデジタル化がものすごく進み、世界でも突出しています。日本はいまアナログとデジタルの間で揺れていますが、中国は完全にデジタルに振り切った。ただ、それを「どう使うか?」という点では、まだ模索中という印象です。便利さと危うさが同居している、それもまた時代の姿なんでしょうね。 ――クリエイティブな面での目標は? 喜多郎:今後は、もう少し「手の感覚」に戻るような表現を試してみたい。昔のようにシンセサイザーだけで、他の音源を使わずに、すべてアナログで演奏する。効果音も手作業で、片手で弾きながらもう片方で音を操作。全部マニュアルです。デジタルが進みすぎた時代だからこそ、人間の息づかいが残る演奏がしたい。それが今、いちばん楽しい挑戦ですね。 Żródło: https://www.billboard-japan.com/special/detail/5095
fortyck Opublikowano Poniedziałek o 11:36 Autor Zgłoś Opublikowano Poniedziałek o 11:36 2025/12/27 【喜多郎】『シルクロード』から45年「簡単にメロディが出てきたということは、みんなも簡単に口ずさめるということなのかもしれない。」 世界的なシンセサイザー奏者として知られる喜多郎さん。発表から45周年を迎える代表作『シルクロード』関連の楽曲を集めたベスト盤『Best Of Silkroad』もリリースされた喜多郎さんに、『シルクロード』制作当時の思い出やその影響、そして現在のことについてなど、いろいろと伺いました! 「45年と言っても、『つい最近のことかな』というぐらいには覚えています」 ――9月には東南アジア各国をツアーで回られていたんですよね? 喜多郎 そうなんですけど、インドネシアで僕のコンサートの数日前に暴動が起きたんです。その影響でキャンセルになりました。 ──ああ、国会議事堂が燃やされている様子などが報じられていましたね。 喜多郎 暴動が起きたときには僕たちの機材はもう現地に行っちゃってたんです。だけどインドネシアで2カ所でコンサートをやって、その次はタイに行くはずだったのが、タイのコンサートの日程に機材が間に合わなかったので、僕たちは日本を出る前にスペアのものを手持ちで持ち込んで飛んだんですよ。手持ちで機材を持っていくのは大変なんです。特に僕の機材は古いアナログシンセなので、重いんですよね。だけどそれを持っていって(笑)。 ――重いし、大きいですよね。 喜多郎 それでタイのコンサート自体はできたんですけど、機材が全部来なくて、僕の機材以外は全部現地調達だった。でもまあ、それで何とかできたのでよかったですけど。そのあとはちゃんと機材がシンガポールまで来たので、そこからは自分たちの機材で演奏できました。 ――ライブ自体はいかがでしたか? 喜多郎 予想していたよりもスムーズでした。シンガポールの会場は昔コンサートしたらしいんだけど、全然覚えてない感じで(笑)。「喜多郎さん、昔、ここでやったよね?」って言うから「……うーん。はい、はい、はい」って(笑)。でもまあ4000~5000人くらいの規模で、マレーシアも6000人くらいの規模のコンサートが今でもできています。「来年もお願いします」という話もあるし、来年はまたちょっと違う趣向を考えようかなと思ってますね。 ――東南アジアに限らず、世界中の人に音楽を愛されているということに関してはどう思われていますか? 喜多郎 本当にありがたいなと思います。ただ、それこそ僕の作った『シルクロード』にしても、その前の曲にしてももう45年前の作品ですからね(笑)。50年近く経っているのに、それをずーっと演奏できていること自体が、僕としてもありがたいなと思います。ただ、僕の機材ってアナログの、それこそ50年選手なんですよ。それが今、まだ動いている。メンテナンスするのがちょっと大変なんですよね。 ――古い機材は内部機構や電源などもデリケートだと聞きますね。 喜多郎 そうなんですよ。僕の今のスタジオも昔の機材ばっかりですから(笑)。ゆくゆくはそういう機材を見たことない人たちが触れるような場所にもなるといいかな、ということは考えています。 ――それはいいですね。さて、9月に出たベストアルバム『Best Of Silkroad』ですけど、番組(1980~81年放送のNHK総合『NHK特集 シルクロード』)放送からは45周年になります。45年前、1980年というと、今思い返すと喜多郎さんにとってはどういう時代、時期でしたか? 喜多郎 45年と言っても、意外とそんなに長く感じてないんですよ。「つい最近のことかな」と思うぐらいに覚えてはいて。『シルクロード』って映像ありきのドキュメンタリー番組で、僕にとっても最初の大きなプロジェクト、特に映像があるプロジェクトだったんですよね。すごく一生懸命やろうとも思っていたけど、逆にそんなに気負うこともあんまりなかったからよかったのかな。僕の中ではすごくクリアでした。『シルクロード』の画面のために曲を作るのに「合わせよう」と考えることはなかったですね。逆に自然と合っていったっていう感じでした。 ――「これは大プロジェクトだから気合いを入れよう!」みたいな感じでは……。 喜多郎 なかったですね。12話、1時間番組を12回分という構成で、とにかく取材したグループが帰国して編集してはどんどん「はい、喜多郎さん、次回分の映像」「次はこれです」って映像を渡してきたのは驚いたけど(笑)。もう本当に、休みがなかったですね。 ――そんなタイトなスケジュールだったんですね。 喜多郎 いやあ、1時間番組ですからねえ。1時間番組で、毎回テーマや取材場所が違うわけです。テーマ曲だけは一緒だけど、一回一回全然違う場所ですから。ただそれが僕は楽しかった。今まで行ったことのない中国の内陸部の、聖域の文化を観られるわけじゃないですか。仕事としてやっていて、楽しくてしょうがなかったですね。だから意外と忙しかったですけど、やりがいはありました。楽しかったですね。 ――僕は当時10歳でしたが、父が毎回、すごく楽しみに見ていたのを覚えています。 喜多郎 やっぱり中国の内部、それからシルクロードっていう聖域、未知なるところを初めて映像にするわけだから、それはやっぱり誰にとっても楽しいですよね。僕だってみなさんに先立ってそれを観て、音楽をつけているっていうのは楽しかったですから(笑)。 「映像と音楽をマッチさせるやり方は、『シルクロード』で確立させることができました」 ――あのメインテーマは、喜多郎さんの代表作になりました。あのメロディーができたときや楽曲の制作の段階で、ここまで愛される曲になるという手応えみたいものはありましたか? 喜多郎 1980年の4月から毎月1回放送していたんだけど、その正月にスペシャル番組を1回放送したんだよね(註:おそらく1980年1月7日放送の『NHK特集 シルクロードを翔ぶ』)。のちのち、NHKのプロデューサーの玉井(勇夫)さんって人と話をしたら「いやあ、喜多郎さん、あの放送がオーディションだったんだよ」って。あのスペシャルで視聴率がダメだったら僕はクビになってしまうはずだったらしいんですよ。でもそこをクリアできた。たぶん視聴率は20%前後かと、それでもう「はいOKです」って(笑)。そこからは、僕はダーッと仕事をやってましたよ。 ――ご自身としてはどうだったんですか? 「いい曲ができた」みたいな感触はありましたか? 喜多郎 僕が作った時点というのは、まだナレーションも入ってない状態なんです。僕が見ているのは映像だけで、音楽を入れたあとに石坂浩二さんがナレーションを入れていくっていう段取りだったので、僕としては映像と音しかない。そのあと石坂さんがナレーションを入れてくるんだけど、やっぱりプロだから、僕の曲の上がり下がりをちゃんと感じてたんでしょうね。それに合わせてナレーションを入れていて。「全てがシンクロした!」って感じでした。 ――石坂さんのナレーションとの相乗効果もあったと。 喜多郎 あったと思いますよ。当時、いろんな人に聞くと「喜多郎の音と石坂さんのナレーションがいいね」って言われましたから。 ――映像と音楽とナレーションが三位一体だった感じですよね。 喜多郎 僕は『シルクロード』全編で6年、音楽を担当したんです。最初の12ヵ月のあとは、隔週で30分という番組(『もうひとつのシルクロード』)の音楽をやって、最後のほうは毎週30分で放送されました。だからその頃はスケジュールが『シルクロード』一色でした。 ――『シルクロード』の仕事を通じて、ご自分の中でサントラを作る方法を確立できたという感触はありましたか? 喜多郎 映像と一緒に仕事をするというのは、僕の経験の中では、当時はまだそんなになかったんですよね。そういう意味では映像と音楽をどうやってマッチさせていくかというのは、確かに『シルクロード』で自分なりに、そのやり方が確立できたかなと思いますね。映像がポンと変わるときに音が入るのか、変わる前からスーッと入っていくのかというやり方について、「あ、こういうときはこれがいいかな」というのが、自分の中ではけっこう見えてきました。それは自分の曲を1曲1曲を作っている時代とはまた違うものでした。全体的な『シルクロード』のテーマがあるんだけど、1つ1つのシリーズごとにはまた違うのものがある。そういう映像素材があるので、それにフィットする曲を作っていくという。あと一番大きな経験だったのは、その後、僕は『シルクロード』が縁で中央アジアなどのいろんな国をずっと旅するんですけど、そういう中で楽器と出合えたこと。民族楽器と出合うことで曲ができてくるのがけっこう好きでしたね。いろんな国に行くことの楽しさというのは、楽器との出合いがあることだな、と今も思ってます。 ――出合った楽器は、演奏できるようになるまで練習するんですか? 喜多郎 やります、やります(笑)。だいたいみんな作曲やレコーディングに使ってますね。 ――この『シルクロード』での経験が、後のサウンドトラックの仕事の原型になったのは間違いないですよね? 喜多郎 自分の中で勉強できました。『シルクロード』をやったおかげで、たとえば映画の仕事が来てもあまりビクついたりはせずに済んだかな(笑)。ただ、映画の仕事の中でも勉強はさせてもらいましたね。映画音楽……まあ、オーケストラの音楽となるとそこは譜面の世界じゃないですか。でも譜面の前に、僕はオリジナルの音源をまず作っちゃう。そして「これをちゃんとオーケストラ用の譜面にしてよ」ってお願いする作り方をしているんですけど、それこそ『天と地』のサントラをやったときにも、譜面の勉強をしましたね。 ――ところで、先ほどの『シルクロード』のお仕事がタイトだったというお話に驚いたんですが、今回のベストを改めて聴いても、ゆったりと流れる時間を捉えたような楽曲が多いですよね。そういう曲というのは、ゆったりした状態じゃないと作れないのかなと思っていたんです。 喜多郎 ゆったりしていることを目的として作るんだけど、本人はゆったりなんかしてないです(笑)。 ――してないんですか!? 喜多郎 「これはどうしようかな?」とか、いろいろ考えてますから。でも音を出しているときは、自分なりの流れるような時間というのは分かるわけです。ただ、考えているときはもうゆったりはしていないですよ(笑)。いろいろ「ああじゃないか? こうじゃないか?」と考えているので。ただ、そうやっていろんなことをチェックしたりしているときに、音との出合いがあるんですよ。ほら、シンセサイザーって音をどんどん変えていけるから。音を変えていくときに、その音との出合いがあって、それで曲ができちゃうんです。シンセで1つの音と出合ってそれが曲になった上に、映像作品の仕事であれば、さらにその曲を映像にちゃんとフィットしていくように変化させることができる。『シルクロード』でそういうことも学んだし、成長できましたね。 ――よく「楽器との対話」みたいな表現を聞きますが、まさにシンセサイザーと対話というか、やり取りをしてるみたいな感じですか? 喜多郎 そうですね。当時『シルクロード』をやってるころは、そんなに楽器がなかったんですよ。まだ3台かそのくらいのシンセしかなかった。だから毎回毎回、次のトラックを作るには今組んである音色をバラして、新しいことをやらなきゃいけなかった。しかも今作った音色をシンセに記憶させておくことができなかったから、再び同じ音を出せるとは限らない。 ──プリセット機能とかない頃ですよね。 喜多郎 そうなんです。それでは困るので、また同じ音を鳴らすために、音を作るたびにいちいちシンセのパネルにマーキングしたりしてました。それでも、結局後から聴くと「これはちょっと音が違うなあ」なんてこともあるんです。例えば自分の体調だとかによっても、何か違うんですよ。好みの音がズレていくんだけど「まあ、この曲を作ったときはこれを選んだんだから、まあいいかな」って割り切るようにはしています(笑)。 ――喜多郎さんは今もアナログの機材をたくさん使っていらっしゃいますが、一方で、楽器も含めてテクノロジー自体は、この45年でものすごく進歩していますよね。そういう新しいテクノロジーに対しては、どういうスタンスでいるんですか? 喜多郎 機材の部分でのテクノロジーという意味では、音楽の世界は意外と進んでいないと思うんですよ。デジタルになったくらいのものかなと。デジタルになって、シーケンサーが出てきたり、そういういろんなことが起きてはいるんだけど、一番テクノロジーが進んだっていうのはやっぱり映像ですよ。「実写でこういうものが撮れるか!」っていうのもあるし、もう今はAIを使えば、これは本当なのか分からないという映像が作れるじゃないですか。そのくらい映像のほうがはるかに技術は上になっちゃったんだけど、逆に音楽はそこまでいってないですよ。 ──そうですか。 喜多郎 音楽の世界でもSunoなども出てきますが、僕たちが過ごしてきた70年代から80年代の音楽って、アナログだったのが急にデジタルになって変革をしていったし、我々自体がその変革に乗り遅れたり、先に行ったりとか、いろんなことをしたんだけど、僕たちの世代っていうのはアナログを知ってるのが一番の強みだと思うんです。我々はアナログの時代を知ってるけど、今、デジタルのテクノロジーの環境でやってる人たちは、結局、カット&ペーストくらいのことしか、たぶん新しいことはやってないんじゃないかと思うんです。今までアナログでやっていたミキシングが、ムービングフェーダーになってっていう、そのぐらいの違いしかないというか。その点、我々のほうがいろいろな経験を積んできているから。古いアナログの機材にしても、本当に生の音に対抗できるものって、なかなかないんですよ。だから映像はドーン!といっちゃったけど、結局音の世界は新しくなってきつつも、アナログの世界に戻ってくる人も多いですよね。LPのブームなんかもそうだろうけど、やっぱり素材としてアナログの持ってるよさには今の人も惹きつけられるんだろうね。 ――どんなにテクノロジーが進歩しても、それだけで勝てるわけではないというか。 喜多郎 そう。例えば、音楽には結局はスピーカーが必要ですよね。しかも、いいスピーカーでもイヤーセットでも、音を震わせて聴かせているだけでしょう? だから、テクノロジーや機材の違いにあまり左右されないというか、そういうことではあんまり変わらない。でも映像の場合、昔は「この実写のシーンをいかに空中で止まっているように見せようか」とか苦労していたのが、今はテクノロジーによって簡単に止まっているように見せられる。音楽は逆にそんなに変わってないからこそ、今後は「何の目的で、どうやって、何でその音楽を作るのか?」という作り手の根本的な考え方こそが一番大事になってくるかなという気はしますよ。 「あのメインテーマは1日でできた曲。でもそれが45年もやれているということは……」 ――冒頭の話にも通じますが、喜多郎さんの音楽の場合、そこの真意が伝わっているからこそ長く、しかも世界中で愛されているわけですよね。 喜多郎 うん、それはあると思います。まあ、ずっとそういうことをやり続けることがやっぱり一番大事かな。そういう気がしますね。 ――映像といえば、昨年発売された『Zen : Live In Katsuyama』は越前大仏を前にしてのライブでした。あれもまさにプロジェクションマッピングだったり、近年出てきた映像のテクノロジーが盛り込まれていました。ああいう演出と喜多郎さんの音楽の掛け合わせも面白いですよね。 喜多郎 ただね、僕はあのとき、長谷川章さんのやっていたプロジェクションマッピングは、当日はほとんど観てないわけですよ。僕たちはその映像の中で演奏してるから(笑)。 ──ですよね(笑)。 喜多郎 だからそのあと、撮った映像として観てたら「あっ、長谷川さん、こんなところでこんなことやってるんだな」というのがあって。編集もみんな僕がやったので、全部観ているんですけど、映像をやる人はあれを上映する楽しみを持ってるし、我々は音楽をやるわけで。でも、僕なんかはその両方……映像と音楽をどうするかとか、映像を撮ってるから、どうやったら全体がうまく収められて、あとから観た人もみんなが「ああ、よかったな」と思ってもらえるコンサートにできるか、という思いが最初の段階からあるわけです。だからイベントの立ち上げで、全体の関係者との打ち合わせをするときから、ほとんど僕の頭の中を開いて「はい、これです」とお話するようにしているんです。そうしないと、分かってもらえないこともあるので。でも、ああいうのは楽しいですよ。 ――その越前大仏のライブ音源と映像、それから善通寺でのライブ音源と映像が『奉祝コンサート [空海] 1250 LIVE IN ZENTSUJI』としてエイベックスからリリースされていますが、ああいう場所自体とか、その場所の持つ歴史みたいなものからインスピレーションを受けることはありますか? 喜多郎 その善通寺さんでのライブも、四国八十八箇所とのつながりもあって、それがたまたま岡野弘幹君が高松、善通寺さんの近くに住んでいた時期もあるということで、結局、そのつながりから善通寺さんとやることになって。それなのに、僕はまだ善通寺さんから依頼された曲が完成してないんですよ(笑)。だから、それも含めて「ちょっとすみません」という気持ちも多少あってコンサートをやりましょう、ということになりました。 ――なるほど(笑)。それが完成したらまた……。 喜多郎 その曲が完成したら、善通寺さんでお披露目できたらいいなと思っています。 ――それも含めてやりたいこと、やらなきゃいけないことも、まだまだたくさんありそうですね。 喜多郎 今は世界中で戦争が起こっている時代なので、我々が本当にやらなければいけないのは、世界平和が戻ってくることだから。まだ自分たちは当事者じゃないんだけど、もうこの地球のあちこちで戦争が起こってますからね。戦争が起きているときのマインドというのは、そんなにクリエイティブじゃないんですよ。クリエイティブにはなりえない。世界が平和であるから曲もできたりするんですけど、今こういう時代になって、ちょっと世界自体が停滞している。で、我々のクリエイティビティも停滞しちゃっている部分があって。もう少し機を待とうかなっていうのはありますね。 ――戦争をしたい人にとっては、クリエイティビティは邪魔なものですよね。 喜多郎 うん、絶対にそう。やっぱりなかなか難しい問題もあります。今、政権もまたどんどん変わっているのはあるんだけど、もう少し世の中みんなが一つになれるようになってほしいなとは思いますよね。ただ右か左かはわかりませんけど、世の中がもう少しまっすぐに動いてくれることを我々は望んでいるんだけど、なかなかそれを望まない人たちもいるから困りますけどね(笑)。 ――一つ、喜多郎さんの作品とは直接関係ないことなんですが、シルクロードや中国をモチーフにしたミュージシャンという意味では、喜多郎さんと並んで、ゴダイゴの存在もあったと思います。そして同じキーボーディストであるミッキー吉野さんとは、ほぼ同世代ですよね? アプローチは全然違いますが、ミッキーさんやゴダイゴについては、どういう印象をお持ちですか? 喜多郎 ゴダイゴでドラムを叩いているトミー・スナイダーと僕は、キヤノンの社歌を一緒に作ってるんです。作曲が僕で作詞がトミー。タケ(タケカワユキヒデ)のことももちろん知ってます。だからそういう意味からすると、同じ年代で違うことをやってるけど、みんな友達ですよ。タケはタケで歌い続けてほしいし、彼らとは非常にフレキシブルにコミュニケートが取れているし、彼らの音楽についてもすごいと思いますよ。だからあそこまでポピュラーになっていったと思うし。ミッキーさんもそうですよね。時代の雰囲気をちゃんとピックアップできた曲だと思うし、ああいう曲作りというのは、まあ今の人にはちょっとできないかもしれないしね。今の人たちの音楽の作り方ってたぶんちょっと違うんですよ。やっぱりコンピュータナイズされていて。僕たちがやってきた曲作りとはちょっと違う。今の時代の曲をいろんなところで聴いたりすると、逆に「僕には絶対できないな」なんていうのがありますし(笑)。 ――たださっき言われたように、喜多郎さんには喜多郎さんの経験と積み上げたものがある。 喜多郎 そうですね。僕なんかはそうやってやってきた『シルクロード』が、もう45年ですからね。まあ、日本の若い人は知らないかもしれないけどね(笑)。 ――でも、あの曲はみんな絶対にどこかで耳にしているはずですよ。 喜多郎 確かにお父さんが見ていたのを横で見ていたという人は「あれ? この曲知ってる」となるかもしれないね。でもあれは、1日でできた曲だから(笑)。 ──いえいえ(笑)、作ったのに要したのは1日でも、それが45年にわたって高く評価されているわけだから、それはすごいことですよ。 喜多郎 それはやっぱりね、簡単なメロディで覚えやすいということなんです。ただ、だからこそもう45年やり続けられている。簡単にメロディが出てきたということは、みんなも簡単に口ずさめるということなのかもしれない。それについてはいまだに「なるほど、そういうことか」とは思っています。 撮影 長谷英史 Żródło: https://avexnet.jp/column/1006893
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